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あるハイドン・ファンの独白 vol.8 2004/2/15
  意欲的なプログラミングからみえてくるものは

  いうまでもなく、演奏会における選曲や演奏曲順というのは、 その一夜の成否をなかば決定するほどの重要な要素だ。前回までの演奏会 の流れ、その回の楽器編成や出演者の顔ぶれ、集客力、経済的要素等々と 考慮すべきさまざまな要素があるとしても、プログラム決定の際に肝要と なるのは、演奏会を通して聴き手が受け取るメッセージの如何ということ になる。

  その点で、今夜のプログラムにおける鈴木秀美氏の姿勢には、 敢えて冒険をしようとする「遊び心」を感じざるを得ない。少なくとも筆 者には一筋縄でゆかないプログラムであるように映る。その所以は、モー ツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を中心に据えてみるとわかりやすい だろう。

  独奏者とオーケストラの各楽器を登場人物と見立てるなら、 概してモーツァルトの協奏曲にはオペラと共通するものがある、とはしば しば指摘されるところだ。後年の、彼自身を独奏者とするクラヴィーア協 奏曲は、その表現の深みといい、多彩な表現要素が見事に統一されている さまといい、まさにそうした典型例ではあろうが、このヴァイオリン協奏 曲第3番でも同様なことが指摘できる。

  この協奏曲では、5ヶ月ほど前に完成したオペラ《羊飼いの 王》K.208の第1幕で歌われるアリアの素材が冒頭に用いられている。アリ アでは、高貴な血筋を継ぎながらその事実を知らないアミンタが、羊飼い として暮らす運命に満足はしながら、いずれこうした生活を離れる時を想 って神々の助けを請う。アリアが伝える幸福な充足感は、協奏曲の第1楽 章にも通底するものだ。第2楽章にはいると、それまで活躍していたオー ボエが(モーツァルトのオーケストラでは同じ奏者が担当する)フルート に替わり、ホルンは音域を下げ、オーケストラのヴァイオリンは弱音器を 付け、チェロとバスはピツィカートで伴奏するようになるなど響きが一変 する。そこはかとない寂しさを漂わせながらも気高さを湛えるのは、アミ ンタが二重写しになっているためか。オペラのフィナーレでは予期せぬ変 転を経て大団円を迎えたように、この協奏曲でも、次々と新しい旋律が現 れては消えながら不思議な調和のうちにフランス風の愉悦とエレガンスと をもって幕を閉じる。

  モーツァルトのこの協奏曲は、このようにオペラと類比され るほどの自己完結性をもち、幸福感を湛えている。他方、今夜演奏される ハイドンの交響曲は、その2曲が際だってこうしたモーツァルト的世界と 対照的であるために、演奏会が進行すると共にその変化が劇的な効果を生 じることになる。

  最初に演奏される第30番交響曲では、その第1楽章で聖週 間のためのグレゴリオ聖歌の旋律が素材として用いられている。明るい喜 びと躍動感に満たされた第1楽章に続き、第2楽章では、軽快な歩みを刻 む弦楽器の上にフルートが協奏曲風に彩りを添える。しかし曲調はいささ か単調で、聴きすすむうちに、聴き手は次の楽章に手の込んだ充足感のあ る音楽を期待するようになるだろう。ところが続く第3楽章には、ロンド 風の(A-B-C-Aといういささか変形されたロンド形式による)、どこか肩 すかしにあったような「軽い」しか付与されていない。つまりこの交響曲 第30番は交響曲としてのバランスを欠いているのだ。この曲は元来、聖 週間の典礼のために作曲されたのではないかとする推測もあるが、それも こうしたバランス上の問題と無関係ではあるまい。

  他方、第52番ハ短調はハイドンの「疾風怒涛」期の最後の 年となる1772年に成立した、典型的に「疾風怒涛」的な作品である。ハイ ドンが楽長となって新たに宗教音楽を担当し、オペラの作曲・演奏活動も 盛んになるにしたがって、劇的で深みのある表現に浸る機会が増え、また エスタハージィ侯爵家に来演する劇団への付随音楽を通して劇的表現の創 作や演奏にも慣れていた頃ではある。対位法的書法や強弱法の意欲的な使 用、息の長い和声連結、シンコペーションの多用、音程の跳躍等の技巧を 通して、短調作品に表現主義的ともいえる傾向を強めていた頃ではある。

  この時期の作品には、オーケストラ・リベラ・クラシカのシ リーズでもお馴染みのように、冒険的な表現が多い。しかし、音楽史上で も形式感の堅牢さでは指折りの作曲家であるはずのハイドンにしてこの第 52番の居心地の悪さ、安定性のなさというのはどういうことであろう。 ソナタ形式における主題郡の扱いの特殊さなど、具体的に指摘してはあま りに作曲技法的な説明になってしまうが、じっと耳をそばだてるだけでも、 作品の背後の不気味なほどの不安定さはきっと強い印象を与えることだろ う。

  演奏会で最初におかれた交響曲第30番は、軽快で明るく時 間的にも短いために、続くヴァイオリン協奏曲への移行の際にはさしたる 違和感はないかもしれない。だが、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を 終え、休憩ののちに、交響曲第52番で再びハイドンへ戻るときには、2 人の作曲家の異質な個性、そしてこれら2曲の交響曲におけるハイドンと しても特異な特質が浮かび上がってくるように思える。こうした2曲の間 に、モーツァルトの幸福な協奏曲を敢えて挟むようなプログラミングをし たところが「一筋縄ではゆかない」とする理由なのである。そこで問題提 起されていることは何なのだろう。

(飯森豊水)

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