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あるハイドン・ファンの独白 Vol.20 2008/02/09
「最後に、そして最初から」

  オーケストラ・リベラ・クラシカ第20回定期演奏会のプログラムを見て、まず目にはいるのは、名手ロレンツォ・コッポラの独奏するクラリネット協奏曲と「ジュピター」交響曲だろう。モーツァルトの最期の年の協奏曲と、最後の交響曲が並ぶと、なにか「最後の」という言葉がひとり歩きし始めそうだ。もっとも、これら2曲に先立って演奏されるハイドンの交響曲第5番は、彼の最初期の交響曲の中の1曲であるから、この演奏会は「最初」にも関わっていることになる。

  1760年頃以前の作曲とみられる交響曲第5番は、古風で厳粛な格調のうちにもハイドンらしい躍動感をもっている。オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会を聴き続けてこられた方ならご存じのように、最初期のハイドンの交響曲の楽章構成は一定しておらず、いくつかの型に分類することができる。当時流行の序曲型(第1,4,10,27番)、ウィーンの伝統に沿ったトランペットつきの晴れやかなハ長調交響曲の型(第20,32,33,37番)、緩徐楽章で開始するいわゆる教会ソナタの型(第5,11,18番)などがその典型だ。緩―急―メヌエット―急という楽章構成をもつ第5番は、教会ソナタの型に属することになるが、必ずしも教会で演奏されるために作曲されたというわけでもないらしい。

  当時のハイドンはフリーの音楽家ではあったが、将来有望な若手として頭角をあらわしはじめ、交響曲を注文されるほどに評価も高まっていた。この交響曲には、上り坂の若手らしい冒険心が認められるし、バランスのとれた形式感や内容的な完成度の高さといった、彼が生涯失うことのなかった特長もあるが、他方でどこか他人行儀で、形式張った印象を与えなくもない。

  他方、モーツァルトの2曲は、作曲者の年齢や成立時期が違うとはいえ、内容も対照的だ。クラリネット協奏曲には人間心理に対する深い洞察があり、「ジュピター」交響曲には冒険心あるいは野心に満ちている。アマチュア愛好家と識者の双方を満足させることが求められた18世紀後半の音楽界にあって、これほど作曲者の個人的関心を優先させ当時の聴衆の理解を超えた(であろう)内容を織り込んだモーツァルトは、時代に先行していたといわざるを得ない。

  クラリネット協奏曲は、元来、低音域を拡張したクラリネット「バセット・クラリネット」のための作品として作曲された。(もっともこの曲がオリジナルなのでもなく、通常のクラリネットよりも長3度低いバセットホルンという楽器のためにモーツァルトが1787年から90年にかけて作曲した協奏曲の断片を改作したもの)。作曲にあたっては、篤い信頼をおいたアントーン・シュタードラーというクラリネット奏者を想定していたというから、きっとこの奏者は卓越した技術もさることながら、深みのある表現を得意としていたのだろう。

  モーツァルトは1777年から翌年にかけてのマンハイム滞在中に、父にあてて次のように書いている。「ああ!ぼくらもクラリネットを持てたらなあ!シンフォニーが、フルートとオーボエとクラリネットを伴ったらどんなにすばらしい効果をあげるか、御想像になれないでしょう」。これがモーツァルトにとっての「クラリネット発見」であったとすれば、アントーンおよび弟のヨハン・シュタードラーとの出会いはクラリネットへの傾倒を決定づけたものだった。ピアノと管楽器のための五重奏曲、クラリネット三重奏曲・五重奏曲ほか、モーツァルトは特にアントーンのための作品を書き続けた。(余談だが、ヨーゼフ・ハイドンの生地は、欧文文献ではしばしば、「ライタ河畔ブルック近郊のローラウ」と表記される。ウィーンからも遠くなくノイジードラー湖から北に10キロほどにあるいくらか洗練されたこの田舎町で、1753年6月にアントーン・シュタードラーは生まれた)。この協奏曲では低音域が多用されている。クラリネットの低音域はアントーンの好みであったようで、2本のクラリネットを使う作品ではあえて第2奏者として演奏していたという。この協奏曲にアントーンの表現を空想することも一興であろう。

  モーツァルトは、自身の作曲法の秘密の一端を、ピアノ協奏曲を例に、次のように解き明かしたことがあった。「むずかしすぎるのとやさしすぎるののちょうど中間のもので(後略)。自然でありながら、空虚に陥っていません。識者だけが満足するところもあちこちにありますが、識者でなくとも、なぜかはわからないながら、必ず満足できるようになっています」。ドイツでは19世紀前半以来「フーガのフィナーレをもつ交響曲」と呼ばれて人口に膾炙してきた「ジュピター」交響曲にもこれに通じるところはある。しかし当時の交響曲の演奏会では、リハーサルを実施したとしてもせいぜい1回程度であったことを思い起こせば、やはりこの曲は相当な難物であり、野心に満ちていると形容せざるを得ない。

  作曲において対位法の重要性を力説し続けたのは父レーオポルトであった。レーオポルトは息子に対し、作曲において当時流行のギャラントなスタイルを尊重するように指示しながら、他方で、古風で学問的な対位法に精通することを説いた。振り返れば、モーツァルトはまずザルツブルク大司教宮廷音楽家を務めた父から、通奏低音理論やフックス風の後期バロックの対位法を学んでカノンやフーガなどで練習し、マルティーニ神父やリニヴィレ侯爵からイタリアの対位法を学んだ。のちにエバーリンやミヒャエル・ハイドンの教会音楽を学ぶべく写譜した。みずからの作曲においては、伝統にしたがって特にザルツブルク時代の教会音楽で対位法を多用していた。1780年代初めにはJ.S.バッハを知って強い衝撃を受けた。

  堂々としたソナタ形式の第1楽章、どこか不吉な予感を与える第2楽章、ギャラントでありながらやはり不安を隠せない第3楽章、当時、グレゴリオ聖歌の「輝く創造主」の冒頭部分として知られた旋律をフーガ主題とする終楽章からなるこの「ジュピター」交響曲では、終楽章のみならず各所で対位法が駆使され、彼のもうひとつの原点を示してくれるようだ。モーツァルトが彼の最初の交響曲ですでにこのフーガのテーマを「予告」していたことは有名だ。「ジュピター」交響曲はこのように、彼の「最後」であり、同時に彼が「最初から」追求し続けたものの集大成であるとも言えるだろう。

(飯森豊水)

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