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あるハイドン・ファンの独白 Vol.19 2007/10/11
1780年代、楽譜出版のひとこま

  オーケストラ・リベラ・クラシカ第19回演奏会では、モーツァルトの交響曲第34番、ボッケリーニのチェロ協奏曲G.483、ハイドンの交響曲「熊」が演奏される。

  1曲目はヴィーンへ移住する前の1780年にモーツァルトが、ザルツブルクで書いた最後の交響曲。移住後の作品とは違って、気やすく音楽と戯れることできる音楽だ。ボッケリーニの作品は、自身がチェロ奏者だったこともあり、室内楽であれチェロ協奏曲であれ、チェロのパートがすこぶる魅力的だ。繊細で貴族趣味的な気高さがあり、脆くもはかない夢を見せてくれる。気迫の鈴木秀美の独奏で聴けるのは本当に楽しみだ。これは1782年頃パリで出版された曲。最後の「熊」は、ハイドンのひとつの極致ともいえる曲。古今の交響曲でもこれほどに隙なく精緻に組み立てられ、しかも豊かな表情を見せてくれる作品は決して多くない。1786年の作。

  これら3人の作曲家たちは当時、それぞれ、モーツァルトはザルツブルクの、ボッケリーニはマドリードの、そしてハイドンはオーストリア=ハンガリーの宮廷に仕えてはいた。しかし音楽家としての意識は必ずしも宮廷にばかり向いていたとはいえない(モーツァルトの場合は完全に離れていた)。そうした時代に、外の世界に向かって広くみずからの音楽をアピールする最良の手段が楽譜販売であった。印刷楽譜はこの時代にめざましく販路が拡大し、結果的に時代の音楽作品の傾向、質をも変化させていくことになる。

  印刷楽譜の出版や販売の状況は、土地によって相違があった。例えばロンドンでは早くも1700年頃から、パリで1740年と60年の間頃から、ヴィーンでは1780年間近になって、ライプツィヒでは1800年頃から興隆してゆく。しかしまだ著作権の概念が確立する前のことであり、こんにちでは考えられないような商習慣が横行していた。以下では、ハイドンの場合を例にご紹介したい。

  ハイドンの作品が印刷楽譜として流通したのは1764年以降のことだ。ただしお膝元のヴィーンやブラティスラヴァ(ハンガリーの当時の首都)などではなく、遠いロンドンやパリにおいてであった。これらはこんにちでいう海賊版であり、作曲者の知らぬところで出版業者が独自に楽譜を入手して、印刷、発売していたのである。その後、新進作曲家としてのハイドンの人気の高まりを受け、海賊版も増加してゆく。

  ヴィーンのアルターリア社がそれまでの美術品や地図の販売から楽譜印刷にまで手を伸ばすようになるのは1778年のことだった。翌年にはハイドンと関係を持ち、1789年4月にクラヴィーア・ソナタHob. XVI:35-9, 20を出版する。これがハイドン自身の監修のもとに出版された初めての楽譜ということになる。

  さらにハイドンはロンドンのフォルスター社で1781年から、フランスでは1783年から楽譜印刷の契約を結ぶ。当時は国ごとに楽譜販売ルートが異なっていたので、同一の作品を各国の出版者と契約せざるをえなかったのだ。しかしこうした複雑さが事態を複雑にし、トラブルを生み出す原因となった。海賊版は相変わらず横行し、作曲者名をわざと(売れる名前に)書き換えたりすることも多く、まして楽譜の正確さを吟味することなどあまり顧みられなかった。出版権を持つ業者が権利を他国の業者に転売して、その国の正規出版者と係争が起こることもあった。

  こうした状況下では、作曲家も自己防衛の必要があった。ハイドンもみずから楽譜販売に積極的に取り組んだ。それは氾濫する誤謬だらけの不正確な楽譜を駆逐するという音楽家としての良心によるものでもあっただろうが、同時に、楽譜販売から最大の利益を上げるという実利的な目的もあり、実はこれが小さくはなかった。

  次に弦楽四重奏曲作品33の例をあげて説明しよう。これはハイドンみずから「全く新しい特別な方法で」作曲したと述べ、モーツァルトに「ハイドン」弦楽四重奏曲集成立のきっかけを与え、その後のハイドン研究にあっても彼が「古典派様式を確立した記念碑的作品」と賞賛されてきた名曲だ。

  ハイドンは6曲からなるこの曲集を1781年の秋に完成し、アルターリアに販売権を与えて出版準備をする一方、筆写楽譜を個人相手に先行販売していた。12月には10名以上の相手に勧誘の手紙を書いている。その中の一通、観相学で知られるスイスのヨハン・カスパー・ラヴァターへの手紙には次のような勧誘をしている。

  「私はあなたの作品を愛し、幸福な思いで読んでいます。…チューリッヒやヴィンタートゥールには多くの紳士の音楽愛好家や偉大な識者にして後援者がいることを存じておりますので、2本のヴァイオリン、ヴィオラ、そしてチェロ・コンチェルタンテのための6曲の弦楽四重奏曲からなる作品を出版することを隠すことができません。予約価格は6ダカットです。私は[弦楽四重奏曲を]10年間も書いていなかったで、それらは新しく、まったく新しい種類のものです…。外国在住の予約者は、私が作品を出版する前にお受け取りになることになります。」

  他方、こうした動きを知らないアルターリアは12月29日に弦楽四重奏曲作品33の発売を告知した。烈火のごとく怒ったのがハイドンである。

  「あなたが私の弦楽四重奏曲を4週間で出版しようとしていることを、…驚きをもって読みました。そのような出来事は私を極めて不名誉な立場に陥れますし、非常に有害です。それは極めて強奪的なことなのです。」

  このハイドンの抗議により、アルターリアの楽譜発売は延期された。結果として、ハイドンは予定した筆写楽譜を完売し、相応の利益を得たのである。

  こんにちの視点からすれば、ハイドンの行動は理不尽であり身勝手に映るだろう。法的な問題も起こるに違いない。しかし著作権法の確立していなかった当時としては(モラル上の非難は免れないかも知れないが)許容範囲のうちにあり、のちのベートーヴェンも同様のことをしたし、手法はメンデスルゾーンやショパンなどにも「継承」されていったのである。

  当時の楽譜販売の事情が明らかになってくると共に、かつてハイドンが作品33に関して述べた「全く新しい特別な方法で」という言葉の解釈も変わった。ハイドンにおける「古典派様式の確立」というよりは、宣伝文句としての要素が強いと判断されるようになっている。もちろん、だからといって作品33の評価が変わるわけではない。その5年後に完成し、今回演奏される交響曲「熊」と同様、賞賛されるべき作品である。

(飯森豊水)

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