ハイドンとモーツァルトの「パリ」
オーケストラ・リベラ・クラシカの第18回定期公演では、ハイドンとモーツァルトがパリの聴衆のために書いた交響曲が演奏される。ふたりの「競作」は耳で愉しみたいが、作品成立までの過程を探れば、当時のパリの音楽界やふたりの音楽家のありようが垣間見えてくる。
当時、パリはロンドンとならぶ大音楽都市であり、誇るべき音楽の歴史と趣味を持っていた。その音楽趣味に幼時から親しんだのはモーツァルトである。父レオポールトに導かれて英才教育と売り込み(就職活動)を兼ねた旅行を繰り返すうち、生涯に3度パリを訪れている。1回目は1763年(7歳)で家族とともに5ヶ月滞在した。このとき公開演奏会で神童ぶりを発揮したり、ショーベルト、エッカルトらドイツ人音楽家や文芸の大立者グリム男爵との関係をきずいたりした。最初の印刷譜となるクラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ集を出版したのもこのときだ。ルイ15世に招かれてヴェルサイユでは御前演奏もした。ロンドン、アムステルダム等を経由して1766年に再度パリに訪問した際は2ヶ月滞在している。この時もグリム男爵はモーツァルトの演奏に接し、この間の目覚ましい進歩に驚歎した。
3回目となるのは1778年。モーツァルトは、マンハイムで就職活動に失敗、その上、恋に落ちたアロイジア・ウェーバーとも別れるよう父から命じられる。失意のままパリに入り、グリム男爵やプファルツの大使などの知人を通して仕事を探すものの、気が晴れることはなかったようだ。陰謀を恐れ、パトロンとの関係もうまくいかず、フランスの音楽とフランスの趣味を軽蔑する。当地の2大コンサート・シリーズのひとつ、コンセール・スピリチュエルの支配人ジョセフ・ルグロから依頼を受けて「パリ」交響曲 K.297(300a)を作曲。しかし旅行に同行していた母が1ヶ月を経ずして客死してしまい、悲しい旅となった。
父に送った手紙に詳述しているように、モーツァルトはこの交響曲でパリの音楽趣味を採り入れ、それが見事に奏功した(ユニゾンによる開始、冒頭楽章と終楽章に反復記号を付けないこと、華麗な管弦楽法など)。上機嫌のモーツァルトは演奏会のあとで上等のアイスクリームに舌鼓を打ったという。
他方、生涯パリを訪れることがなかったのはハイドンである。モーツァルトの場合と違って、ハイドンの父親は財力も人脈もない素朴な音楽愛好家であった。ハイドンは天与の才と努力、そしていくらかの運によってみずからの道を切り開いた。
幼いハイドンは、まず遠い姻戚関係にあったハインブルクの校長のもとに預けられて「鞭に打たれ」ながら多くの楽器を修得した。少年聖歌隊員を探しに旅していたウィーンの聖シュテファン大聖堂楽長ロイターに紹介されてウィーンへ移ってからは、勉強のかたわら、あらゆる機会を捉えて演奏した。青年時代には生活のための辻音楽師として活動するうちに、なかば偶然に人気俳優クルツ・ベルナルドンの知己を得てその軽妙で即興的な振る舞いを自分の音楽に採り入れる。屋根裏部屋を賃借していたときには偶然同じアパートに居住していた皇室詩人にして台本作家のピエトロ・メタスタージオと縁ができて、彼の生徒に音楽を教えはじめると間もなく著名なイタリア人オペラ作曲家ニコラ・ポルポラに紹介されて、歌のレッスンの伴奏を任される。フュルンベルク男爵の夏のパーティに招かれて最初の弦楽四重奏曲を書いたのも、モルツィン伯爵家で指揮や交響曲の作曲をしたのも、この人脈によるものだ。伯爵家のオーケストラが経済的理由で解散した直後、1761年にエスターハージィ侯爵家の副楽長となり、その後はソリの合わない楽長ヴェルナーのもとにあっても侯爵を喜ばせて、ヴェルナーの死後は楽長として侯爵家の音楽家や歌手、巡業劇団などとも良好な関係を築いていった。1779年になると、外部からの注文に応えることを許されるようになる。ウィーンの出版社アルターリアの求めに応じたほか、カディス、ナポリ、パリ、そしてロンドンからの注文に応じて作曲できるようになったのは、こうして苦労の末に勝ち得た信頼の結果にほかならない。
ハイドンの作品は、1760年代から海賊版の印刷譜あるいは筆写譜として少なからず流通し人気を博していた。しかし外部からの作曲の注文を受けると、ハイドンは非常に慎重になった。1768年に低オーストリアのツヴェットル修道院からの依頼でカンタータ《喝采Applausus》を作曲したハイドンは、自分が演奏に立ち会えないことを断り、楽譜とともに演奏上の詳細な指示を書き送った。そしてその最後には、自分が彼らの趣味を理解していないとしても自分の責任ではなく、人も土地柄も知らないために作曲が非常に困難であったと述べている。音楽家として堅実に階段を上ってきた彼なら、見知らぬ音楽家による自作の演奏の成否には非常に神経質になったことだろう。
その点、パリはハイドンにとって好都合だった。ハイドンはこの地に足を踏み入れることはなかったが、ひとかたならぬ好意を感じていたはずだ。当地では1760年代から各出版社がハイドンの器楽作品を続々と発売していた。作品が当時のパリの主要なコンサート・シリーズで上演されるようになるのは1781年以降だが、それからは人気に火がつくのが早かった。そのひとつ、コンセール・スピリチュエルでは1781年から90年にかけて開催された335回の演奏会のうち、実に191回でハイドン作品が演奏されており、88年からは交響曲が2曲(時には3曲)が演奏会ごとに取り上げられるほどだった。
こうした当時のハイドン人気を反映して、第3のコンサート団体であるコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックが1784年の末から85年の年初にかけて、6曲の《パリ》交響曲集 Hob.I:82-87)をハイドンに依頼する。この団体はフリーメーソンのパリの後援で設立されていたが、ちょうどこの時期にハイドンはウィーンでフリーメーソンに入会したため、あるいは作曲の打診はウィーンの会員を通して行われたのかも知れない。その報酬も法外で、1曲あたりの金額は、モーツァルトが1778年に伝えている通常額の5倍にのぼった。
(飯森豊水)
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