モーツァルトとザルツブルク
今回は「受難」という、キリスト教の大切な教義に関連する(可能性のある)作品に始まり、
現存するハイドンの唯一のホルン協奏曲を間に挟んで、最後はポストホルンを使ったモーツァルトの
セレナードで締めくくるという構成だ。ホルンの曲が2つあるが、協奏曲は「狩りのホルン」であり、
モーツァルトは郵便馬車の合図のホルンであるから、楽器は違う。
ハイドンの「受難」交響曲(1768年作曲)といえば、彼の「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)」期を
代表する作品のひとつで、この作曲家のシリアスで純度の高い音楽を伝える名品だ。2曲目のホルン協奏曲
(1762年)は、モーツァルトの有名なホルン協奏曲と違ってほとんど演奏されることがない。
ナチュラルホルンでの演奏が困難なのも理由のひとつかも知れない。しかしそれだけに、
エスターハージィ侯爵家の副楽長に就任した翌年のハイドンが、どれほどこの名手揃いのオーケストラを
誇りにし、彼らを引き立てようとしたかを知ることができる。
最後に演奏されるのは「ポストホルン・セレナード」。恋人あるいは高貴な人の窓辺で
歌われた音楽に由来するセレナードを、キリストの受難を連想させる交響曲と同じ日に演奏するというのは
あるいは冒険的かもしれない。しかし近年では「受難」交響曲をふくむ「シュトゥルム・ウント・ドラング」の
作品に過度の感情移入を求めるべきではないとされるし、逆にモーツァルトのセレナードやディヴェルティメント
(かつては「嬉遊曲」などと訳された)と交響曲には、質的な差をあまり意識する必要のないというのが
一般的な理解となりつつある。今回の「ポストホルン・セレナード」や去年の作曲者生誕250年の記念日に
オーケストラ・リベラ・クラシカが素晴らしい演奏を聴かせてくれた「ハフナー・セレナード」は、
中でも第1級の作品である。
さて、この「ポストホルン・セレナード」、1779年8月3日にザルツブルクで作曲されたことが
わかっており、2曲の行進曲とともに楽員たちが入退場し、野外で演奏されたと推測されている。モーツァルトは
この年の9月24日付でこの曲を「フィナールムジーク(最後の音楽)」と呼んでいて、そこから当時の
ザルツブルク大学の学生たちが基礎過程を終了した時期に、教授たちへの感謝を込めて演奏するための
管弦楽セレナードであったと考えられるようになった。
しかし、ザルツブルクのコロレド大司教のもとで働いていた教会音楽家のモーツァルトが
なぜ大学のために作曲する必要があったのだろうか?近年、当時のザルツブルクの音楽事情の研究とともに、
この地でのモーツァルトの活動内容が次第に明らかになってきている。以下ではその文脈から
「ポストホルン・セレナード」の誕生の事情を探ってみよう。
ザルツブルクは、ローマ帝国崩壊後、696年に聖ペテロ大修道院、774年に大聖堂が建立されるなど
早くからカトリック教会の重要拠点として位置づけられ、中世以来この地におかれた大司教は、宗教的には
もちろんのこと、近郊から採取される岩塩(「ザルツブルク」とは塩の城砦の意味)によって経済的にも
強大な権力を手に入れてきた。音楽に理解のある大司教も多く、彼らは制度的・経済的に音楽活動を支援してきた。
その結果、優れた音楽家たちが各地から集まり、ルネサンス時代のラッソ、バロック時代のビーバーやムファットなど、
ザルツブルクは街の規模に不釣り合いなほど、その時代の代表的な音楽家を集めることになる。
大司教の宮廷が雇用する音楽家たちは4つに分類された。すなわち、宮廷楽団、宮廷・野外トランペット隊、
大聖堂聖歌隊、およびカペルハウス少年聖歌隊である。
モーツァルトがわずか13歳で楽師長として採用された組織は宮廷楽団で、この4グループの中でも
中心的な役割を担っていた。彼らの主たる役割は大聖堂合唱隊や少年聖歌隊とともに大聖堂で教会音楽を演奏することであり、
モーツァルトは時に作曲を依頼されることがあったとしても、それは副次的な仕事であった。音楽家の人数は時により作品に
より柔軟に増減したが、大規模な演奏には40人以上が参加したという。木管楽器、トランペット、ティンパニの奏者は
弦楽器奏者や歌手より出演の機会が少ないため、ヴァイオリンの演奏をするよう要請された。
大司教宮殿(レジデンツ)もまた彼らの重要な演奏の場だった。定期的に開催される演奏会、
食卓の音楽あるいは種々の催事において、交響曲、協奏曲、ディヴェルティメントなどが演奏された。
ザルツブルクの中心に位置するベネディクト会大学(ザルツブルク大学)は、南ドイツ語圏における
カトリック教育の最重要機関であり、その教育意図を体現した催しとして古くから演劇公演が行われていた。
演劇公演も当初は幕の始めと終わりに合唱が付けられる程度であったが、次第に音楽の場が増え、1760年頃には
当時のイタリア・オペラを手本にしてレチタティーヴォとアリアが交替するような音楽劇になってゆく。
ここでは宮廷楽団の音楽家たちが作曲と演奏を担当し、学生たちは歌と踊りで参加した。それは豪華な催しであり、
「制作費は膨大なものに違いない。大勢の人が集まっていた」という当時の記録が残されている。
モーツァルトの「アポロとヒアチントゥス」もこの公演のための作品である。
ザルツブルク大学における「フィナールムジーク」の習慣は前述したとおりであり、モーツァルト父子ほ
か宮廷楽団員が作品も供給していた。この独特の習慣の起源については今日なお不明だが、遅くとも1740年代までには
大学の行事として定着していた。モーツァルトの父レオポルトは30曲以上を作曲してこのジャンルの礎を築き、
モーツァルト自身もK.203、K.204そしてこの「ポストホルン・セレナード」を提供している。ザルツブルクに
特有の管弦楽セレナードというジャンルが確立するには、このように大学の行事が深く関係していたのだ。
1772年に大司教となったコロレドは、当時の啓蒙専制君主ヨーゼフII世に影響を受けてザルツブルクに
大規模な改革をもたらしたが、大学劇場が1778年に閉鎖されるなど、当地の音楽家たちの活動の場を次々と奪っていく結果となった。
ザルツブルク以外に条件のよい定職を求め、大司教との関係も悪化していたモーツァルトは、「ポストホルン・セレナード」を
作曲して2年足らずでウィーンに移住した。
(飯森豊水)
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