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あるハイドン・ファンの独白 Vol.16 2006/10/15
モーツァルトのピアノ協奏曲をめぐって−当時のウィーン社会との関連で

  本日のプログラムは、ハイドンとモーツァルトによる2曲の交響曲の間に、モーツァルトの ピアノ協奏曲がはさまれるという構成になっている。オーケストラ・リベラ・クラシカはこれまでにも モーツァルトの協奏曲は演奏してきたが、ピアノ協奏曲、それも第20番ニ短調となると、聴き手の期待も がぜん高まることだろう。そこで今回は、モーツァルトのピアノ協奏曲創作を、当時のウィーン社会との 関連でながめてみることにしよう。

  鍵盤楽器(オルガン、チェンバロ、フォルテピアノ等)のための協奏曲は、歴史は短いとはいえ、 モーツァルト以前にも少なからぬ数の作品が残されている。作曲家としては、ブランデンブルク協奏曲第5番で その可能性を開いたJ.S.バッハ、50曲以上を残したC.P.E.バッハをはじめとするバッハの息子たち、 ハイドン、ベンダ兄弟、エーデルマン、グラウン兄弟、ショーベルト、ヴァーゲンザイル(以上、ドイツ語圏出身) あるいはデュランテ、マルティーニ、ペルゴレージ(以上、イタリア)などが名を連ねる。

  多数の鍵盤楽器協奏曲が作曲されたにもかかわらず、当時はこのジャンルが、あるいは その1曲1曲が「作品」として格別の価値を持つ考え方は存在していなかった。交響曲や協奏曲などの器楽曲に おいて、次々と新作が発表されては旧作が忘れ去られていくのは当然のこととされ、これらは「使い捨て」の ジャンルとみなされていたのだ。さらに当時の考え方では、オペラやオラトリオなどの声楽曲を高く位置づけ、 器楽曲を低くとるようなヒエラルキー(序列構造)が音楽の専門家や一般で広く浸透していた。

  そうしたヒエラルキーを揺さぶり、ピアノ協奏曲の地位をかつてないほどの高みにもたらしたのが モーツァルトであった。(新聞等での音楽批評は未発達であったし、そもそもこうした「使い捨て」の作品を 論評するということは考えられなかったので)残念ながら彼のピアノ協奏曲に関する当時の評価を文献によって 知ることは難しいが、以下の数字を評価の傍証とすることは可能だろう。すなわち、モーツァルトの生前には、 50曲を超える彼の交響曲のうちでもたった3曲しか出版されなかったのに対して、30曲程度のピアノ協奏曲の うち7曲が出版されているのだ。楽譜出版を人気のひとつのバロメーターとみなせば、彼のピアノ協奏曲を 「使い捨て」することを惜しいと考える意識が芽生えていたことがわかる。


  モーツァルトのピアノ協奏曲創作を概観するなら、1767年から91年までのあいだに、 独奏のための協奏曲を28曲、ロンド・フィナーレを2曲、そして2台および3台のための協奏曲を1曲ずつ 残している。

  興味深いことに、これらの合計32曲のうちのうち17曲までが、82年から86年までの 短期間に集中的に作曲されているのだ。それに対して86年からの最後の5年間ではたった2曲しか書かれていない。 この劇的な変化はどのように説明されるべきなのだろうか。ウィーンの聴衆がモーツァルトのピアノ協奏曲に 飽きてきたということがあるだろうし、モーツァルト自身の関心が他ジャンルに移行したということもあろう。 だが詳細に観察するなら、ウィーンの音楽環境における重大な変化が影響していることが明らかになってくる。


  モーツァルトが移住した1780年代のウィーンは、オーストリアやハンガリーのみならず、 今日におけるチェコ、ドイツ、イタリア、クロアチア、ポーランド、ルーマニアなどにまたがる広大な領域における政治、 経済、文化の中心であった。貴族たちは帝都ウィーンに居を構え、この地に生活をしていた。貴族たちの多くは 単に経済的な余裕を持つばかりでなく、高い教養と音楽など文化への理解をそなえていた。

  ウィーン古典派の作曲家たち(グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)が生地を 離れてウィーンに活躍の場を求めたのも、これら貴族を頼ってのことだ。当時のウィーンでは楽譜出版や写譜業が 興隆し、演奏会の開催も頻繁であった。演奏会は、予約演奏会や慈善演奏会などの公開演奏会と、私的な演奏会の 2種類に分類されるが、とりわけキリスト教の復活祭前の40日間(四旬節)は、オペラの上演が禁止されていたので、 毎晩のように演奏会が開かれ、モーツァルトのような人気音楽家は多忙を極めることになった。こうした演奏会では、 交響曲、協奏曲、アリアなどが上演されたが、みずから即興能力の高いモーツァルトは、自前のピアノ協奏曲で ステージに立ち、自身をアピールした。(当時のウィーンでは、ピアノ協奏曲のリハーサルはよくても「通し」で1度、 ひどい場合にはほとんどなしで本番に挑まなくてはならなかった。モーツァルトの協奏曲のような難曲を 演奏してしまうオーケストラの技量には驚かされるが、それとともにモーツァルトの才気に直接触れるような エキサイティングな演奏になったことと想像できる。)

  本日のピアノ協奏曲第20番が作曲される前年、1784年の四旬節にモーツァルトが催した一連の 演奏会については、174名の予約者の名簿が残っている。ある研究によれば、その50パーセントが高位の貴族、 42パーセントが低位の貴族と裕福な平民、そして一般市民はわずか8パーセントであった。このうち約83パーセントが 男性であったというから、(女性が大多数をしめるパリのサロンなどとは対称的に)ウィーンの音楽界が圧倒的に 男性の貴族に支えられていたということになる。

  この時代の政治状況に目を転じれば、80年代前半は、女帝マリア・テレジアが80年に没してから 単独統治者となったヨーゼフ2世が、啓蒙主義の合理的精神で改革を(必ずしも成功ばかりとはいえなかったが) 推進した時期にあたる。彼は検閲の廃止、カトリック教会の権力制限などを実施した結果、ウィーンには一時的に 自由で活発な空気が生まれていた。ところがオランダにおける反乱、トルコとの戦争、そしてヨーゼフ2世の死(90年)があって、 ハプスブルク家は衰弱し、貴族の経済力も極端に低下してしまった。

  結果としてこうした混乱をきっかけに、ウィーンのコンサート熱は急速に冷めてしまったようだ。 こうしてみると、80年代におけるモーツァルトのピアノ協奏曲の創作は、ウィーン在住貴族の経済力の盛衰と 見事に一致していることもわかってくる。
(飯森豊水)

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