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あるハイドン・ファンの独白 vol.13 2005/10/13
C.P.E.バッハとハイドン

 ハイドン(1732−1809)の修業時代のことについては、資料が少なく、 知りうることは限られている。伝記に関してはわずかに彼が44歳の年の1776年 に著した簡単な自伝的書簡と、老境に入ってから伝記作家たちに語った曖昧さも 残る記憶が、私たちにとっては拠り所となっている。それによれば、彼がウィーン に出てきた1740年春から、ボヘミアのルカヴィツェにオーケストラを持つ モルツィン伯爵家の楽長に就任する1759年頃のまでの約20年間が、彼の 音楽家としての基礎を形成した時代とみなせるだろう。

 このうち最初の約10年は、オーストリア帝国の首都ウィーンの格式ある 聖シュテファン大聖堂で少年聖歌隊員として過ごし、ラテン語、宗教、数学、 作文などのほか、音楽では楽器演奏や歌唱法を学んだ。しかしながら優秀な 聖歌隊員養成を目的とする教会では作曲家養成のための教育がなされたわけ ではなく、作曲理論の指導はほとんど無かった。とはいえ、すでに作曲に 興味を示し始めていたハイドンは、教会で歌うモテットやサルヴェを自由に 変奏し、聖シュテファン大聖堂の楽長で聖歌隊員の教育にあたっていた ゲオルク・ロイターが必要な指導を与えたという。

 1278年以来ハプスブルク家の支配を受け、中部ヨーロッパの文化的中心地と なっていたウィーンでは、著名なイタリア人音楽家が代々宮廷に招かれていた。 しかし、イタリア人のアントニオ・カルダーラが1736年に、オーストリア人の J.J.フックスが1741年に没してからは、この地における後期バロック音楽が 急速に衰退し、新しい音楽の波が押し寄せるようになる。またカール6世のあとを 継いだマリア・テレージアが宮廷における音楽の予算を大幅削減すると、ウィーン の音楽活動における宮廷の求心力も低下してゆき、その一方で、この地に居を 構える貴族たちが音楽のパトロンとして重要性を増してゆくことになった。

 ウィーン音楽界の変革の時代にあって、ハイドンは1749年頃に変声期を迎え、 もはや聖歌隊員として用を為さなくなったため聖歌隊を去ることになった。 生活の基盤を失った彼は粗末な屋根裏部屋を借りて、音楽のレッスン、教会での オルガン演奏やオーケストラでのヴァイオリン演奏、歌唱、あるいは夜の セレナード演奏などで自活を始める。セレナードでは五重奏曲など、自作の 音楽が演奏されることもあったという。

 この貧困の時代、一時的に住居を提供してくれた声楽家のシュパングラー、 金を貸してくれたレース職人のブーフホルツなどにはハイドンは老年になっても 感謝を忘れなかった。のちに彼が仕えることになる侯爵の母(エスターハージィ 未亡人)やオペラ・セリアの台本作家として著名なピエートロ・メタスタジオ、 さらに作曲家兼声楽指導者として高名なニコーラ・ポルポラと出逢ったのも この頃で、とりわけポルポラからは声楽、作曲、イタリア語の指導を受け、 作曲家としての基礎を固めることができた。ポルポラの紹介で、 クリストフ・ヴィリバルト・グルックやゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル等 の音楽家たちの知己を得て励まされたことも、若きハイドンを勇気づける こととなったという。

 しかし、ハイドンが修業時代に学んだ作曲家のうち、音楽的にもっとも 強烈な影響を受けたのはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (1714−1788)であっただろう。ハイドンはバッハの 「プロイセン」ソナタ集(1742) あるいは「ヴュルテンベルク」ソナタ集(1744)を入手し、 伝記作家のグリージンガーが伝えるように、時を忘れて没頭した。 「私はそれらを弾いてしまうまではクラヴィーアを離れませんでした。 そして私を知り尽くしている人なら誰でも、私がエマヌエル・バッハに 多くを負っていて、彼の音楽を理解し、勤勉に学んだことに気付くに 違いありません。」

 最近の研究によれば、ハイドンがエマヌエル・バッハを知ったのは、 従来推測されていた時期よりも遅いようだ。1750年代のウィーンでは まだ彼の楽譜はほとんど流通しておらず、彼の代表的理論書 《正しいクラヴィーア奏法についての試論》がウィーンで初めて広告 されたのも1763年になってからのことだった。

 初期のハイドンの音楽は、聖シュテファン大聖堂やポルポラのもとでの 学習やウィーンの音楽環境を反映して、当時のオーストリア音楽の 特徴を強く示しているが、1760年代の後半から70年代初頭にかけて、 つまりいわゆる「疾風怒涛」の時期に、明らかな変化を示すようになる。 それは音楽様式そのものの変化であるが、同時に、装飾音や通奏低音など 記譜法の変化をもともなっている。記譜法上の変化からは、ハイドンが 遠い北ドイツの作曲家エマヌエル・バッハの《正しいクラヴィーア奏法に ついての試論》から受けた影響を認めることができるため、彼がこの 理論書を読んだのは1766年頃のことだったのではないかという 推測がなされている。

 直観的にはともかく、具体的な例を挙げてふたりの音楽的な影響関係を 語るのは決して容易ではないが、いくつかの作曲技法に関しては、 ハイドンがエマヌエル・バッハから直接的に影響を受けた可能性を 考えるのは不可能ではない。それは若きハイドンが没頭した鍵盤作品が 中心となる。それは、例えば、ハイドンの幻想曲風・カプリッチョ風の 作品が上記の理論書の即興に関する記述に基づいているのではないか ということ、あるいは1760年代のハイドンの独創性あふれる変奏曲に エマヌエル・バッハの有名な「変化する再現部」の影が見受けられる のではないかということ、さらにはハイドンの二重変奏 (短調と長調の交替する変奏)がエマヌエル・バッハの 《変化する再現部を持つ6つのソナタ 》からヒントを得ているのではないか、 といったことなどだ。

 ハイドンとエマヌエル・バッハは、生涯を通して直接には一度も会うことは なかったが、相互に敬愛する関係にあった。ハイドンは前述のように エマヌエル・バッハをもっとも影響を受けた作曲家であると明言し、 エマヌエル・バッハは、イギリスのマスコミによってハイドンが不当な 批判を受けた時に彼を弁護した。18世紀後半から19世紀にかけての ドイツの音楽批評は、彼らを並べて取り上げることが少なくなく、 ふたりが新時代のドイツ音楽の代表者であり、とりわけ器楽曲を 新しい水準に引き上げた立役者と見なしていた。

 エマヌエル・バッハの激烈で過敏な音楽は、「パパ・ハイドン」という 旧来のハイドン像とは、あるいは異質であるように映るかもしれない。 しかし現実のハイドンが生涯にわたって書き残した音楽には一貫して刃物の ように鋭利な感性が刻印されており、それは他のどの先輩作曲家よりも エマヌエル・バッハにこそ近いように思われる。ふたりの同質性、 あるいは異質な部分を聞き分けることのできるのが、今回の オーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会ということになる。

(飯森豊水)

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