OLCホーム
コンサート情報 ディスコグラフィー プロフィール りべら倶楽部 リンク集 鈴木秀美ホームページ
あるハイドン・ファンの独白 vol.12 2005/6/10
ボヘミアの音楽家たち、聴き手たち

 ドイツの中南部、バイエルン州に属する古都バンベルクは、人口が8万人にも 満たない小都市で、11世紀の大聖堂や15世紀以来の数々の美しい建築で観光客 の目を愉しませてくれる。この地を本拠地とするバンベルク交響楽団は、どこか 土の香りのする密で厚みのある響きをもっていて、ドイツ・ロマン派の作品を 演奏すると雰囲気豊かな演奏をする。彼らは、ベルリン・フィルを始めとする ドイツ各地のオーケストラが現代的な洗練や機動性を求めて変質して行くうち に失ったものを今でも持ち続けているし、他方、ドレスデン・シュターツカペ レのような貴族的な洗練とはちがった温もり、親しみやすさがあるのもまたこ のオーケストラの魅力だ。

 バンベルク交響楽団の歴史は意外に浅い。プラハで活動していた「ドイツ・ フィルハーモニー管弦楽団」の元楽員たちが第二次大戦後にこの地に移住して きたおり、彼らを中心に結成したのがその始まりであるという。ボヘミアの響 きと演奏趣味をバンベルクにもちこんだその結果が、こんにちドイツ的と形容 されるオーケストラの中核にあるというのは興味深い。

 ドイツ的なるものの中のボヘミア的なるもの。これはなにも20世紀に始まった ことではない。歴史を遡れば、ボヘミアは950年に神聖ローマ帝国の支配下にお かれ、1526年にはハプスブルク家の支配のもとでオーストリアと合体する。 三十年戦争が国土を荒らした1620年、カトリックのハプスブルク家はボヘミア のプロテスタントへの抑圧を強め、民族的権利を剥奪し、ドイツ語を強制した。

 こうしたことはボヘミアの人々にとって屈辱的であるばかりでなく、音楽家 たちにとっては就職先を失うことを意味していた。ボヘミアやその東のモラヴィア の音楽家たちは、ヨーロッパ各地へ未曾有の大移動を始める。彼らの多くは移動先 の言葉、多くの場合はドイツ語風に改められた名前で今日知られることになるが、 そうした音楽家が音楽史においてもっとも大きな存在となったのが、ヴァンハル の時代、すなわち18世紀中葉から後半のことであった。

 ウィーン古典派の時代には、ハイドンやモーツァルトの影に隠れて今日では 忘れ去られた音楽家も多いが、この地域出身の音楽家の多いのには改めて驚か される。ヨハン・シュターミツとその息子のカールおよびアントン、さらに F.X.リヒター、A.フィルツらはマンハイムで交響曲創作の歴史に足跡を残し、 G.ベンダはオランダのゴーダでメロドラマを成功させてオペラ史に影響を与え、 兄のフランツはベルリンのフリードリヒ大王の宮廷でコンサートマスターを務 めた。J.ミスリヴェチェクはナポリなどイタリアの各都市でオペラの人気作曲家 となり、ミュンヘンではオラトリオを成功させてモーツァルトと親交を結んでい る。A.ギーロヴェツはパリやロンドン(ここでハイドンと知り合う)を経てウィーン では宮廷劇場の作曲家兼指揮者に就任し、オペラや器楽曲で大成功を収めた。 ホルン奏者のG.プントやピアノ奏者兼作曲家のJ.L.ドゥセクは各地を演奏旅行 して人気を博した。ボヘミアやモラヴィア出身の音楽家はヨーロッパ全土に広 がった、ウィーンに定住した者も多かった。J.B.ヴァンハルもそのひとりであ るし、F.トゥーマは女帝エリーザベトつき作曲家兼指揮者、J.シュチェバーンは 宮廷つきピアノ教師としてM.アントワネットや王女カロリーヌを指導した。 他にもF.L.ガスマン(宮廷楽長)、L.コジェルフ(宮廷作曲家)、F.クロンマー (宮廷作曲家)などがいる。この時期に祖国を離れずにいた音楽家は、F.X.ブリクシ (聖ヴィート大聖堂音楽監督)とF.X.ドゥシェク(ピアノ教師)くらいであったと いわれるほどだ。しかし彼らの生前の人気や活動は没後間もなく忘れ去られていった。

 その中で、ヨハン・バプティスト・ヴァンハル(1739-1813)は、交響曲、 協奏曲、室内楽曲、鍵盤楽曲などの器楽曲やミサ曲、レクイエム、スターバト・ マーテル、モテットなどの宗教曲など、当時のあらゆる主要な曲種で作品を残し ている。生前から多数の楽譜が出版され、今日でも700種以上を数えることから、 60年代から70年代にかけてはウィーン随一の人気を誇ったと推測されている。 その生命力は今日新たに見直されており、とりわけ彼の短調交響曲については、 20世紀初頭から音楽学者たちが注目して、その「疾風怒涛」的傾向に関して ハイドンやモーツァルトとの間に影響関係の有無を論議してきた。(ハイドンも エスターハージィ侯爵家の楽団で幾度かヴァンハルの作品を指揮している。 また、確証はないがマイケル・ケリーの《回想録》によれば、84年の夏に スティーヴン・ストーラス家で行われた四重奏曲の夕べでディッタースドルフ、 ハイドン、モーツァルト、ヴァンハルが共演したとしている。ちなみに本日 演奏される交響曲ホ短調 Bryan番号e2も、ハイドンの「疾風怒涛」期にあたる 1771年から72年頃の作品と見られている。)

 他方、プラハの聴衆の作曲家に対する温かい反応は、ヴォルフガング・ アマデウス・モーツァルト(1756-91)の例が広く知られている。モーツァルトは この地で《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》《皇帝ティトゥスの仁慈》 を上演し、ウィーンの冷淡な聴衆とは対照的な反応を受けた。1787年1月、 モーツァルトがプラハを訪問し、《プラハ》交響曲を初演した晩の聴衆の反応を、 批評家ニーメチェクが、11年後の1798年にいささかの誤解も交えながら伝えている。 「モーツァルトの到着の日に《フィガロの結婚》が上演され、作曲者も会場に姿を 現した。このニュースは瞬く間に客席を巡り、序曲が演奏されると歓迎の大喝采が わき起こった。万人の要望に応えて、モーツァルトは[1月19日に]オペラハウスの 大演奏会場でピアノリサイタルを開いた。この時ほど劇場が満員になったことは なかったし、彼の天国的な演奏に対してこの時ほど会場が一丸となって熱狂した こともなかった。実際のところ、私たちは賞賛をこの驚嘆すべき作品に向ける べきか、演奏に向けるべきか、わからなかったほどだ。両者は渾然となって 圧倒的な印象を与えたので、私たちは魔法にかけられたように感じた。(中略) この機会のために彼が作曲した交響曲は、器楽曲として真の名作だった。 素晴らしい推進力と熱気をもって演奏され、魂は崇高なる高みへと引き上げられた。 特にニ長調交響曲がそうで、この曲はプラハでは今日なお愛好されている。 もう百回も演奏されているというのに」。このような熱狂がどんなにかモーツァルトの 心を慰めたことか。
(飯森豊水)

第12回公演のご案内に戻る
(C) 2003 , Orchestra Libera Classica , All rights reserved. Since 19 February 2002.