移動とトイレに不自由な人間
2008/04/13

   もう「前世紀」のことだが、あるときオランダの電車の中で、私は楽器を二台持っていたのでデッキに立っていた。すると、終点のデン・ハーグ駅近くになってやってきた車掌が私をしげしげと見て、『ときに人は全てを欲しがるものだ…』と哲学者のような顔をして言った。疲れていた私はとっさに言い返すことも出来なかったが、心中「なにを偉そうに…欲してるんじゃなくて必要なんじゃい」とぶつぶつ呟いていた。

   二つはもちろんだが、たとえ一つでも、ありとあらゆる移動や旅行はチェロ弾きの頭痛の種である。いくら持ち慣れているといっても15分以上歩くのは疲れるし、昔の半分以下の重さとなったケースは、チェロ弾きの足元を見るかのように驚くほど高額である。混んだ電車の中では白い目や無言の圧力を感じ、飛行機ではもう1席買わねばならない。しかも国際線では大人と同額なのである。飯を食わず空気を汚さず、トイレにも行かず、10ヶ月の赤ん坊より軽いというのに。飛行機会社は、己の利益優先主義が音楽文化の発展を妨げ、私達がよい音楽を享受する邪魔をしているということを理解していない。この駄文の読者に飛行機関係者がおられたら、是非とも心せよ。生きているうちにしかよいことはできないのだ。

   チェロにトイレは要らないが、奏者にはもちろん要る。飛行機内では問題ないが、普通の移動中、駅などでは困ることであり、一人のときには我慢しなければならないこともしばしばである。この事情に関して私達は「トイレに不自由な人」であり、最近は数が増えた障害者用のトイレを有難く使わせていただいている。

   オランダの電車で持っていたのがどの二つだったかはっきり思い出せないが、今私は通常3種類の楽器を使って仕事をしている。つまり、バロック、クラシック〜ロマン派、そして5弦のチェロである。しかしこの頃は車で移動するようになったので、白い目の人やしたり顔の車掌に煩わされることはなくなった。

   既に多くの方がご存知のように、18世紀末から19世紀初頭にかけて音楽の対象は少数の貴族から大勢の一般大衆に変わり、宮廷のサロンから大きなホールへと会場が変わっていった。それにつれて、それ以前に作られた楽器はもっと大きな音がするように改造されていったのだが、それは必ずしも進歩だけとは呼べない。

   およそ楽器という楽器の「進歩」の意味は、殆ど例外なく音量の増大・演奏の容易さ・均一性(安定度)の3つを求めることである。厳しく言えば音色や音楽的表現性などが二の次になったということだが、それは音色や楽器の性能のうちに求めるものが変わってきたということでもある。ネクタイの幅やスカートの丈、ヘアスタイルの流行が変わるように、人間の趣味や美的感覚は変化する。親と子でさえ、同じものを美しいと感じるとは言いきれない。ならば18世紀と19世紀、バッハの時代とモーツァルトやベートーヴェンの時代、さらに後の時代の美観が同じであるわけはない。そのことに異論を挟む人はいないと思うが、同意しつつ、各曲を弾くに当たって私達はどれだけ演奏方法を変えられているだろうか? 「美しい音」「歌って弾く」ということの意味するところはいつも同じではないのである。

   同じ楽器でそれぞれ曲に合うように変えるというのは、チャレンジのようでもあり面白そうだが、実は楽器の特性が視野に入っていない。18世紀と20世紀では白黒が逆というほどに美意識が異なることさえあり、道具はどちらかに好都合にできているのである。

   「そんなことを言っても聴くのは現代の聴衆なのだから、楽器を変えたり奏法を変えたり、そこまでする必要はない」という意見を聞くこともあるが、これは「どうせ食うのは日本人なんだから、フランス料理でもイタリア料理でも醤油ぶっかけときゃいいさ」というのと大差ない暴論である。現代人の感覚はまだそこまで衰えてはいない。

   歴史の最後にいる私達は、19世紀まで殆ど誰もしなかった「過去を新鮮に味わう」という贅沢を楽しんでいる。それまで、音楽とはこれ即ち現代曲なのであった。とはいえその中には、弱冠19歳でバッハのマタイ受難曲を再演したメンデルスゾーンや、ポッパーなどと一緒に「歴史的演奏会」と銘打ったシリーズを企画したクララ・シューマン、クープランの作品を出版したブラームスなどのように、「歴史は未来のためにある」ことを知っていた人々もいた。20世紀には音楽学の科学的研究が大幅に進み、音楽と楽器やその演奏法が密接に繋がっていること、想定された楽器から学べることが多くあることなどが理解され始め、現代の演奏にも取り入れられるようになってきた。そのような演奏をそれまでの方法、つまり後期ロマン派的・20世紀(前半)的表現の演奏と区別するために、「古楽」「古楽奏者」という言葉が使われるようになってきたのである。

   過去の作品を楽しむなら、それぞれの作品がいつも新鮮に響くように私達は出来る限りの努力をするべきである。アルノンクール氏も言っているように、過去の作品が今も私達の心の糧となっているのは明らかであり、各時代の音楽をそのスタイルで新鮮に演奏するという「古楽」は最も「モダン」な考えなのである。

   というわけで、私はバッハをはじめとするバロック音楽に一つを、ベートーヴェン以降にもう一つを、そしてバッハの組曲第6番にある「5弦で」という指定のために5弦のチェロを使うことになった。ついでに、シューベルトがソナタを書いたアルペジォーネは金属フレットのついた6弦の楽器だが、実際には殆ど演奏に耐えないので、それにもこの5弦のチェロの調弦を変えて使っている。普通のチェロよりもはるかにアルペジォーネの響きに近くなる。かくして、トイレに自由にいける日は、一向に近づかない。


鈴木秀美

(初出『四日市、りべーろとまり村便り』)

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