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バレンシアの海岸に来たのは20年ぶりのことだ。既にかなりの暑さになっている 5月のその日は、聖母マリアの像を教会から移すとかいう大切なお祭りで、街はどこも賑わっ ている。評判の高い水族館を見に行こうと4人でホテルを出たが長蛇の列、諦めて海岸へと 歩いたものの途中で道が怪しくなって、気がついたら車道の路肩しか歩くところがないところも あった。ホテルから2時間近くも歩いてようやく着いた広々とした砂浜にはたくさんの人が 寝そべったりボール遊びに興じたりしている。オランダ、デン・ハーグのスヘベニンゲン海岸に 似ていなくもないが、日差しの強さも海岸の広さ長さもはるかに勝っている。靴を脱いで 歩くと波打ち際の水はぬるんでいて、きめ細かな砂に足の沈み込むのが心地よい。波の退いた 砂の色が不思議とまだらになっていた。 海岸沿いには魚介類専門レストランがずらりと並んでいて、そのいくつかは かなり高級な店構えである。お祭りの日曜日とあって、どの店も予約で一杯だ。端から順番に 当たっていって、ようやく何軒目かでテーブルを得て、手長エビや貝類、パエリアなどの美味に ありつくことができた。 20年前、あれはたしか86年4月のことだった。先生であり、また同僚かつ友人の リカルドとジャックと共に、コンサートと講習会をするためこの地に来たのだった。まだ ヨーロッパに来てそう長くなく、右も左も分からずスペイン語もできない私はただ彼らに ついてきたようなものだったが、講習会は勘のよい通訳を得て何とか無事終わり、昼過ぎに パエリアを食べに海岸へ来たのだった。今立っているのと全く同じ場所であったかどうか 記憶が定かではないが、その時にはそんな立派な店が立ち並んだ場所はなかったように思う。 眩しい太陽の下、簡素なテーブルで実に立派なパエリアを食べ、やや濃い味のビールを 大きな吸い口のようなガラス器から直接喉の奥へ流し込む。正直なところコンサートより 遙かに強烈な記憶だったが、パエリアはおそらくワインと共に食べるのが良いようだ。 オリーヴ油と冷たいビールのせいで、その晩は胃が苦しくて眠れなかったことを、20年経っても まだはっきり覚えている。 3週間に及ぶ今回のツァー、最初の10日間はスペイン内の公演である。成田を 発ってフランクフルト経由でバルセロナへ、さらにバスに揺られること約4時間の旅は辛かったが、 最初の公演地サラゴサの大ホールは視覚的にも音響的にもなかなか素晴らしい。ホール近くの バーでタパスをつまみながらビールなどを飲むのはまことにくつろぐものである。タパス・バーは いわば寿司屋のようなもので、いろいろな料理がガラス・ケースの中や上に並んでいるから、 たいしてスペイン語ができなくても指さして一つ、二つと言っていれば何とか欲しいものを口にでき、 しかも一つの皿はそう大きくないので日本人には有難い。イカ・蛸・エビ等がよくあるのも嬉しい。 シシトウのような小ピーマンをさっと素揚げしたものは最高だった。 サラゴサからバレンシアへはバス、マドリッドへは電車で移動。考えてみれば私は スペインで初めて電車に乗った。マドリッドでは空いた時間に闘牛を見に行った人も多かったが、 私はごめんだ。ホテルの部屋でテレビを付けるとそこでも闘牛をやっている。テレビでは大写しに なるので余計に血みどろの印象を受ける。全く殺傷好きな国民!などと思うが、あれもやはり いろいろ解ってみると面白いらしい。20代でデビューし30代前半には多くが引退してしまうという マタドール、最も名声を博す人になると年に4〜5億円も稼ぐという。600sの牛が目の前にやってくるのを 平然と受け流すのはどういう心臓なのか想像も出来ないが、一日6頭「片づけられる」お陰か、 スペインは靴がとても良くて安い。ホテル近くの靴屋で早速物色した。 30℃を越すマドリッドから飛行機に乗って着いたビルバオはせいぜい15℃、少々寒い。 この街には何度か来たことがある。山が近く深い緑と自然が味わい深いが、およそ晴れているのを 見たことがない。ここはバスク地方に属し、街中の表示は全てスペイン語とバスク語で書かれている。 バスク語のビルバオは「ビルボ(Bilbo)」となり、一時期のめり込んだ長大三部作の映画を思い出して 嬉しくなってしまう。豊かな表情を見せる雲とやや暗い色彩の街中を真っ赤な「ビルボ・バス」が 走っているのが印象的だ。 街中を流れる川沿いには有名なグッゲンハイム美術館の巨大な異形が銀色に光りを放っている。 一方私たちが演奏した場所は恐らく19世紀末からあると思われるホールである。決してよい音響とは言えず、 建物の中には埃くさく古めかしい空気が澱んでいる。ステージ脇の小部屋とあらゆる廊下の壁には今までに ここで演奏した巨匠達のサイン入り写真がびっしりと掛けられている。中には1898年、20歳そこそこの カザルス、1901年、幼少のホルショフスキ、1926年のハイフェッツ、クライスラーや若き日の ホロヴィッツなど、数え切れないほどのビッグ・ネームが並び、いつまでも見飽きることがない。 我が師ビルスマの懐かしい顔がマイスキー氏とヨーヨー・マ氏の間にあった…。 スペインでは、特にビルバオなど北部地方で塩漬けの鱈を戻したものや メルルーサなどの料理が多いようだ。メルルーサは私が子供の頃冷凍食品として日本に入り始めたような 記憶がある。その頃には白身とはいえ臭くて不味い魚、と母親たちの間でひどく不評だったように 憶えているが、ここではとても美味しい。今回はさらに記憶に残るバスク料理の美味として、 小イカを墨と一緒に煮込んだものを食べたが、何でつけるのかほんのりとした甘さがあって抜群であった。 電車やバスの窓から街並みを眺めていると建築物のユニークさに目を惹かれる。 考えてみれば、イスラム文化とキリスト教文化が混じり合ったイベリア半島のこと、建築に特徴が あるのは当然のことだ。グラナダのアルハンブラ宮殿もあればバルセロナのガウディもある。 しかし目の前で注意を惹くのはそういった名跡のことではなく、現代の建築物である。新しく建てられた アパートやオフィスビルなどの外壁が、殺風景な直線の代わりになだらかな曲線になっていたり、 全体が丸く作られていたり、どうも曲線が多いようだ。今回ソプラノのソリストとして同行した Joanne Lunnの夫君は設計関係の仕事だとかで、興味深い建物がたくさんあると言っていた。 そういえば、サラゴサ、マドリード、バレンシア、以前行ったことのあるサラマンカ…と、 スペインには音響が優れているばかりでなく建築としても目を惹く大ホールが幾つもある。 今までに何度か来たスペインは、「岩肌がごつごつして赤っぽい土の色」という印象だった。 (断っておくと、私たち音楽家は(人にも依るが)バカンスに来るのではないので、最も風光明媚な場所、 地上の楽園のような場所は、そこでどなたかが殊勝にもコンサートを所望されない限りは知らずにいる。 その上での印象の話である。) しかし今回、バスの車窓から実に表情豊かな岩肌や土の色を見ることが できた。土は赤いだけではなく、白かったり黄色かったり、鮮やかなほど紫だったりする。ちょっと 車中で何かをして窓の外に目を戻すと、もうそこにはまるで違った色彩の世界が拡がっているのだ。 EUに加わったことが奏功したのかどうか、高速道路は非常によく整備されていてバスの乗り心地は悪くない。 岩肌の色と共に目に留まるのが至る所に生えているオリーヴの木である。ガイドの方の 話によるとスペイン内に約3億本。しかしもともと生えていたのではなく、中近東から持ってきたとのこと である。大規模な植樹だが、地面を真っ平らにして植えるのではなくなだらかな稜線に沿って植えてあるので、 大自然そのものという感じである。よい実を結ばせるために、殆どはせいぜい数十年から100年以内で 切ってしまうという。遙か彼方までうねり続く景色の中で、紗がかかったようにくすんだ緑色の低木が 岩肌と渾然一体となっていくのは素晴らしい。時々、ねじくれ曲がった巨木が乾いた地面に影を 落としているのが後ろへと飛び去ってゆく。 オリーヴといえばイスラエル、あの国にも実に多くのオリーヴの木がある。そして ゲッセマネの園にはイエスの時代からの巨木がある。ゲッセマネをヘブル語では「ガッシュマニム」といったふうに 発音し、「オリーヴを搾るところ」という意味なのだとイスラエル人の友達から教えてもらったことを ぼんやりと思い出した。 スペイン最後に訪れたアルメリアは国の南方、ホールは海岸から目と鼻の先である。 新興住宅地内にあるホテルの近くには中華料理屋と日本食屋、そして日本のスーパーを3つぐらい くっつけたような巨大ショッピングセンターがあった。スペインのスーパーでは大抵どこでも魚屋が しっかりやっているのに、ホテル住まいではいろいろ買うわけにもいかず残念だ。ワインが驚くほど安い。 野菜売り場に膨大な分量のピーマン類が積み上げられているのも、いかにもスペインという感じである。 有名なハモン(生ハム)もまたすごい数で並べられたり天井からぶら下がったりしているが、安いものなら 脚一本でせいぜい5000円程度である。あれをどうにかして一本ツァーに持ち歩けないか、と考えるのだが…。 アルメリアからマラガへとバスで移動、そこからローマ経由でミラノへ。やっとパスタが食べられる。 スペイン人は同じラテン系だが主食は米と芋、ちっともパスタを食べない。パスタと共に、旅はようやく後半に入る。 |
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