| BCJアメリカ・ツァー雑記 2003/6/17 |
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『どうしてアメリカなんかに行くんだ、よりにもよって「この時期」に!?』とどれほど多くのメンバーが思ったことだろう。正しくは『どうしてアメリカは戦争なんて始めるんだ!』であっただろうが、今回のツァーは、始まるまでに過去のツァーとまったく違った緊張感があった。 『バッハ・コレギウム・ジャパンをアメリカで』という向こう側の熱意は事務局や雅明を通じて伝えられてはいた。しかしメンバーたちとしてはまだ今ひとつ実感が伴わず、いずれにしても大変そうだと思っていたところへもってきての開戦である。 国と個人を一緒にしてはならず、国の決定で個人が評価されてはたまらない。そんなことは分かっていても、21世紀にまだ戦争で何かを解決しようとするアメリカに対して、何らかの抗議の意志を表明したいという気持ちは、少なからぬメンバーの胸の内にあっただろうと思う。しかし残念ながら、何万人も動員できるスポーツのイベントならいざ知らず、クラシックのコンサートなど少々キャンセルしたって「ああそうですか」でおしまい、よほどのスーパー・スターでもない限り話題にはなり得ない。音楽家が何かをアピールするとすれば、それはステージの上しかないのである。 私達は行くのか行かないのか…。その決心をしっかりしておくことが今回は何よりも重要だった。不安の募る私達のところへ、アメリカの主催者から、また先にニューヨークに行っていたゲルト・テュルクからもメッセージが届き、今だからこそこの音楽が必要なのだという思いが伝えられた。 練習の最初に話し合いが持たれ、いろいろな意見が聞かれた。練習に来ているのだからもう話は大方決まっているようなものではある。誰も「行かない」とは言っていないが、すんなり行けるのかどうか、と気は重い。いっぽう、そんなことは気にしない、行くことに決めているという人もあったし、音楽家として行くのが仕事だ、といった意見もあった。思うところを口にし、人の意見を聞くことは、「積極組」「消極組」両方にとって意味があった。そして、「行くと決めたなら、何かが起きたとしても『やっぱり来なきゃよかったんだ』などと愚痴はこぼさない決意をしよう」という貴重な意見も出て――それは考えようによっては悲壮感を伴うものであったが――ようやく私達は練習へと進むことになった。まだ気は重いままであったが、一応の踏ん切りがついた。 そもそも受難曲でツァーをするのだから全ては重く、楽しい旅という感じのものではない。しかし今回、少なくともリハーサルはそう長く感じられず、気心の知れたロビンとゲルト、ペーターは「現地集合」、若干なじみの薄いヨッヘンだけが日本での練習に参加した。そのおかげで、カザルス・ホールで行ったゲネプロでは、櫻田亮君のエヴァンゲリストや田村由貴絵さんの"Erbarme dich"など「番外」を聴く嬉しい経験ができた。 飛行機に何度も乗る今回のツァー、とにかく金属のもの、アヤシイものは何でも預けさせられるか没収される、と何度も脅かされていた(失礼)ので、日本でのチェックインはスムーズにいったのではないだろうか。乾燥肉が入っているからカップヌードルは禁止、という話には驚いた。食物の制限に、「胃袋の国籍」がはっきりしている人は困ったのかもしれない。私は今回、とにかく疲れないこと、飲み過ぎないことに留意していたつもりなので(嘘ではないゾ)、深夜の食糧事情について詳しいところは分からない。 アメリカ国内ではたしかにチェックがかなり厳しく、鞄の中のコンピュータは別に検査され、靴を脱ぐところ、ベルトを緩めさせられるところもかなりあった。しかし心配した楽器の問題は殆どなかったようだ。時間が少々かかっても検査はしっかりしてくれればよいのであって、手を抜いて何かが機内に入り込んでは大変だ。それなのに、現地での日本人エージェントは空港とホテル間のバスで、やれ鞄の鍵はかけろの外せの、「見つかります」だの「大丈夫です」だのと筋の通らない説明をマイクでがなり立てて大きなストレスとなった。音楽家たるもの、まずは旅のプロなのである。 ツァー中こんなにしょっちゅう時間が変わるのはアメリカ・ツァーならではのこと。国内の3時間の時差に加えて途中で夏時間に変わったので、いったい我が家は今何時?? 日本時間のまま目覚ましに使っていた携帯電話が頼りであった。ヨーロッパとの時差には慣れているけれど、アメリカとの時差は電話などがしにくい。また、まぶしい日差しの西海岸から雨混じりで雪の残るニューヨークまで、天候・気温もヴァラエティに富んでいて、半袖シャツからコートまで、持っていったものは全て使うことになった。 食べることに興味の尽きない音楽家にとって、残念ながら「アメリカ」はあまり胸のときめく名前ではない。ハンバーガーとコーラの国だろ? という感じだ。実際には、一つの国というのがおかしいほどに大きくて、何でもあるはずなのだ。ハンバーガーだって正しく作られれば本当に美味しい。しかし、旅芸人の限られた時間と行動範囲で楽しめるところはというと…大都市にはきっとある中華街である。クライスラーがその喧噪を聞いて、あの「中国の太鼓」を作曲したと言われるサンフランシスコの中華街、素晴らしく活気溢れるニューヨークの中華街など、以前にも行ったことはあったが、今回はまたBCJの「胃袋の友」と共に行けてまた楽しかった。最初に4晩も泊まることになったロスアンジェルスの中華街は少々道が広すぎて茫漠とした印象もあったが、タクシーの運ちゃんに教えてもらった店はなかなか美味しかった。あの店は3日間BCJによって随分潤ったはずだ。得をしたはずの計算間違いも、翌日また行ったおかげで取り立てられた! グラン・ラピッズでは、本場のステーキを食おう、と連れだってステーキ・ハウスに行った。そこではアルバイトらしいウェイトレスに、寺神戸君が私を指して"He is a bit sick"といったのがなぜか聞き間違えられて、私は 60歳(sixty)の誕生日のケーキをもらう羽目になった!一方、ボストンの新聞では「雅明の息子の弾くチェロ」と書かれ…60歳の息子を持つわが兄は「東洋の仙人」となった。 さて、こんな駄文をここまで読んでくれた方のために…もう少し雑談をしよう。 今回のアメリカでの公演は7回、うち初めの1回のみがヨハネ、アナーバーとボストンが教会で、あとは大小様々なコンサート・ホールであった。もともとこのツァーの話の発端となったカーネギー・ホールは噂に違わず素晴らしく、実に華やかな音響であった。騒ぐだけのことはある。しかしいってみれば質実剛健で装飾は少なく、聴衆側のロビーは驚くほど狭く、舞台裏も広くない。建物の殆どはホールそのものに占められているのである。 ここの裏方さんたちのプライド高き態度は特筆に値する。仕事はよくしてくれるが、その「立派すぎる」態度は簡単にものを頼めない感じだ。そんな彼らが「この方がゼッタイ良い」と主張したので、このホールでは管楽器が台の上に乗らず、オーケストラがみんな平土間で演奏した。音はたしかに良かったようである。開場の直前に皆でステージに集まり、遙か彼方の客席から三浦興一さんが写真を撮って下さったが、それは随分「異例」のことだったらしい。しかし、由緒あるホールとはいえ、博物館ででも演奏「させてもらっている」ような窮屈さが感じられたのは残念であった。 コンサートの第一部が終わり、少々疲れた足を動かそうと思った私は階段を上がって楽屋に戻った。それから10数分もしてから、やれやれという感じで寺神戸君や堂阪さんが入ってきたので話を聞けば、なんとエレベーターが途中でストップしたのだそうだ。指揮者やエヴァンゲリストを含む10数人を乗せてである。幸いホールの人が一人乗っていたので、電話で連絡してくれたそうだ。何でも完璧といった感じのカーネギーでの、予想だにせぬハプニング。メンテナンスの係はあの日、少しぐらい態度が小さくなっただろうか。 さて今回のツァー、演奏は概ね好評であった。習慣的に立ち上がる感のあるオランダ等の聴衆とは違い、アメリカでは正しく意味のあるスタンディング・オヴェイションを、カーネギーを含め何度もいただいた。 最初のUCLAのロイス・ホールは、立派な部屋に後からステージ部分を建て増したもので、残念ながらステージ上ではちっともいい音がしない。その上、この先ツァーの間ずっと悩むことになるひどい乾燥で、弾いている間にも楽器の音がどんどん悪くなっていくのである。歌手の皆さんも大変だっただろうと思う。おかげで(少なくとも私は)随分悪戦苦闘しながら弾いていたのだが、客席での響きは素晴らしく良かったという。まったく解らぬものだ。終演後は鮨や味噌汁まであるパーティを催していただき、そこでも随分お褒めの言葉をいただいた。 翌日はバークレーの公演。ゼラーバッハ・ホールというまったくモダンなホールで残響も少なく、バロック向きとはいえない。そのせいもあってか、聴衆のリアクションは悪くなかったのに、サンフランシスコの新聞には笑いたいほどひどい批評が出た。前日と演奏がそれほど変わったとは思えなかったが…批評の最後に「古楽の温床であるベイ・エリアの聴衆はもっと多くを期待するのだ」と書かれていたのには驚きつつ、意識を新たにした。 興行的に見たツァーのピークは、なんと言ってもカーネギーだろう。しかし、音楽的な集中、聴衆の本当に深い理解という意味ではグラン・ラピッズ、そして最後のボストンではなかったかと思う。 グラン・ラピッズはミシガン湖の近くで、カルヴィン・カレッジというミッション・スクールと神学校があり、アメリカの改革派教会の中心地である。広々として美しく、静かなその敷地内にあるホールでコンサートが行われたが、私達の公演日程に合わせ、"Bach the preacher"(説教者バッハ)というタイトルで3日間のシンポジウムが催された。コンサートの聴衆の半分以上はそのシンポジウムの参加者で、著名な音楽学者や神学者も含まれる。コンサートが進むにつれ聴衆がマタイの隅々までを理解して聴いていることが感じられるようで、静寂の質がまったく違っていて素晴らしかった。 ボストンでは、公演に先立ち、Ch.ヴォルフ氏という高名な音楽学者と雅明の対談によるレクチュアが開かれた。ピーナッツ・ブックスの「ライナス」をそのまま大きくしたような彼と「東洋の仙人」雅明の対話は、ユーモラスで楽しい雰囲気だった。彼の言うとおり「ドイツ人のルター派の音楽を、アメリカのカトリックの教会で、日本人がアメリカの聴衆のために演奏する」全てが間違ったコンサートではあったが、音楽関係者も多いボストンの聴衆もまた大変集中して聴いて下さり、教会の響きや雰囲気とも相まって、アメリカ国内の最終回として私達の記憶に深く残るものとなった。 帰国してからの3公演はいつものオペラシティと、懐かしいカザルスホールでの追加公演。ここでの出来は、お聴きになった皆様のご判断にお任せすることにしたい。 さて、出かけるまでに悩みの多かったツァーではあるが、終わってみればトラブルも少なく、大変スムーズであった。途中フライトがキャンセルされて早朝空港で時間を持て余した人もいたが、それでも無事時間通りに到着して公演ができたわけだし、病気も少なく置き引きにもあわず、寝坊・遅刻も最小限(?) で、無事に帰宅できたのは何よりである。そして、最終的にはやはり「行ってよかった」のである。この時期に、いやこのような時期であったからこそ、アメリカの数多くの聴衆と受難の物語やバッハの響きを共有できたことは本当に幸いなことであった。各オーガナイザー、読売旅行の方々、事務局の皆さん、楽器運搬と調律のために同行された梅岡さん、素晴らしい写真を多数撮って下さった三浦さん、そしてこの全てを可能にするために多大なるご支援を下さった皆様に心から感謝を申し上げたい。 鈴木秀美
(バッハ・コレギウム・ジャパン第59回定期演奏会プログラムに掲載) |
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