| 蕎麦とバッハ 2002/8/29 |
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目を瞠る立派な手。手で仕事をする人らしくその甲はごついが、掌は不思議に暖かく柔らかい。その手から滲み出る優しさが、10割の更科蕎麦を水でつなぎ得させるのだという。大西利光(かがみ)氏、古い街並みの残る上田の柳町で蕎麦屋を営む方である。 縁があってこの夏は上田で講習会の講師を務めた。その途中、蕎麦屋の2階でソロのコンサートをしてもらうから、とだけ言われて後は何も知らず、当日までに聞いた話は、とにかくそこの蕎麦はうまいということぐらいであった。蕎麦屋の2階ですることと言えば落語か討ち入りの相談か…バッハではあるまいに。江戸時代の絹問屋、養蚕もしていた商家を改造したという大きなその店はしかし、入り口の広い土間に切られた溝には湧き水が流れて鯉や岩魚が泳ぎ、上がり框に大きな堤燈、奥には座敷が広がって実に風情ある建物であった。コンサートの聴衆は階下で蕎麦を食べてから、鉤型になった2階の広間に座布団を敷いて聴く。客の入りを危ぶむ声もあったが、広く聞こえた蕎麦の味と、家族総出で準備に勤しんでくださった大西家と周りの方々の尽力を得て、2階を埋め尽くして階下にも溢れる150人余もの方が集まり、家屋と調度品の渋い光沢のような雰囲気も相まって、忘れがたいひとときを過ごすことが出来た。 終演後一献酌み交わしている中でチェロやバッハについても話していたのだが、大西さんの話によると、1700年代初期つまり日本の宝永年間に、信州の蕎麦はすでに日本一と評判を得ており、およそ1720年前後に、石臼の間に鏨(たがね)を入れ、臼を浮かせて蕎麦の実とほぼ同じ高さにし、丸抜き実(鬼皮・外皮をきれいにむいた実)を得る技術が開発された。これこそが「絹よりもさらに白い」更級(さらしな)蕎麦で、後に代官保科氏の字をいただいて「更科蕎麦」となったとのことである。まったく蕎麦粉だけで、しかも水で打つのは至難の業、そしてその絶妙な味は自分の「蕎麦認識」をすっかり塗り替えるものであった。現在大西氏の店では、それらに加えて更科に山椒を混ぜた「山椒蕎麦」、蕎麦の実を発芽させたところで挽く「発芽蕎麦」等が供され、珍味酒肴の数々と共に、自然・素朴でありながら実に奥深い味覚を愉しませてくれる。その味をこれ以上書こうとする愚は犯すまい。上田の近郊、更埴(こうしょく)一帯の絹商人の、絹を売る際の手土産として広まった更科蕎麦の起源が、バッハの無伴奏組曲とほぼ同時期であることに不思議な興奮を覚えた。 吟味した素材を愛で、江戸時代にはどうであったか、蕎麦とはどうであったのかと原点に立ち戻りつつ毎日丹精に蕎麦を打つ。そのことと、道具や演奏の習慣も含めた歴史的視点を大切にするオリジナル楽器奏者の態度、そしてその楽器から出る音に大西氏は大きな共通点を感じ取ってくださり、大いに意気投合した髭男たちの盃は乾く間もなく、宴は夜更けまで続く。 名古屋しらかわホール友の会発行『音彩』への連載第3回目。
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