| Imperative(命令形)不在の日本語になりま〜す 2002/4/10 |
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もちろんこちらが外人だからの話ではあるけれど、ヨーロッパでは、日常会話の中で言葉の間違いは放っておかれない。イタリアの田舎町のバーで「Due birra(ビール二つのつもりで)」と言ったら、「Una birra, due birre!」と直された。イタリア人は特に見過しにしないようで、厳しく、しかし優しく正してくれる。もちろん、もしこちらが流暢に話し始めたら、もう(諦めて)外人のことだから、となるのかもしれない。またイギリス人のように、外人の喋るちょっとおかしな英語を聞いて楽しむといった悪いクセのある人もいるが… しかるに、日本人の言葉への無頓着はいかなることか。外人が話す日本語は「日本語は難しいからねぇ」といって大して直さず、日本人同士ではもちろん直さない。しかし近頃では、何を言っているのかよく解らないことが生活の中でも起きるのである。国会答弁や政治家などの話をしているのではなく、卑近な飲み屋などでの話である。「本日のお勧めの方は○○になります。ご注文の方が幾つになりますとお値段がこれこれになりますがいかが致しますか?」…「はい、こちらの方はたぬきそばになります」…じゃあ今持ってきたものは何? 新聞などでも時々書かれているから、ここで改めて言うことはないようなものだけれど、「〜の方」というのは何か丁寧になるように思われているのだろうか。一方があって初めて他方があるのに…しかしそれよりもっと問題に感じるのは「〜になります」である。「〜です」というと断定的すぎると思って、それを和らげているつもりなのかもしれないが、そう言っているのは自分ではないとでもいいたげな、どこか責任逃れの雰囲気を感じてしまう。「〜になります」には文章としての主語はあったとしても主体がなく、マニュアルにあることだけしか喋れないような若者には都合のよい言葉である。 「見れる」「食べれる」等の「ら抜き言葉」、「〜じゃないですか」などという丁寧風ぞんざい語と並んで、「〜になります」は現代日本語の大問題と僕は毎日思っていて、蕎麦屋や飲み屋でその度に訂正したくなるのを必死で堪えている。そして最後には「○○円からお預かりしま〜す」という呪文を聞かなければ店の外に出られないのである。もちろん、「である」という表現だってオランダ語(蘭学)の「te zijn (英語のto be)を翻訳するのに困って出来たものと聞いたことがあるから、そう古いことではないかもしれないし、言語はどのみち変化していくもの、ということも承知ではある。しかしわざわざ進んで言葉をいい加減にしていくことはない。 責任逃れ的言葉と並んで、テレビの子供番組を見ているともう一つ問題に感じることがある。 今も昔もマンガの世界は勧善懲悪、正義の味方がさらわれた友達を救い出して悪者をやっつける、といった筋書きがある。それはそれでよいとしても、悪者と対峙する場面などで、昔なら「抵抗はやめろ!」とか「その子を放せ!」などと叫ぶであろうところが、この頃のマンガでは「やめてください」「放してください」などとなっていることがある。「やめろ」は命令形だが「やめてください」は依頼・懇願であり、懇願を聞き入れるものは普通「悪者」とは呼ばない。子供と一緒に見ていても、そういうところにくると拍子抜けしてしまう。「命令形」は文法の中だけに置き去りにされつつあるかのようである。 ところで、音楽の中には断定的表現、あるいは喜怒哀楽の「怒」にあたる表現も多くあるが、日本人の若い奏者はその手の表現が下手である。例えば受難曲の中で音楽家は実にさまざまな心理的表現をしなければならない。イエスを十字架につけろと叫ぶ群集や彼らを扇動する律法学者の言うことなどは、怒った表現ができなければ意味をなさないし、イエスを嘲笑する部分などはとりわけわざとらしく表現されなければならないのだが、そういうときに限って音楽家は何故か善人ばかりになり、「悪者」の表現がなかなかできないのである。それほど具体的な例でなくても、またそれが受難曲やバロック音楽に限らなくても、否定的表現、怒った表現は音楽の至るところに登場する。マンガの中でさえ正しく「命令形」を聞いていない子供たちが大きくなったとき、音楽の表現はいったいどうなるのか。 このようなことを言っている僕はそのうち「オジイサン、何言いたいのかちっとも解らないわ」と言われるのかもしれない(もう言われているかもしれない)。しかしその日(その実感)を一日でも後へ延ばすために、いやせめて音楽が衰退してしまわないために、やはり言葉は正しく使っていかなければならない。 |
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