| The Great Clock Shop 2002/4/15 |
「もし神様が音楽を通して人に語りかけるならハイドンの音楽を使われたであろう。しかしもし神様自身がお聴きになりたいなら、ボッケリーニを選んだであろう」。これは19世紀のヴァイオリニスト、ジャン・バティスト・カルティエの有名な言葉である。今回のミト・デラルコ演奏会はアフタヌーン・コンサート、まさに日曜日の午後のように緩んだ彼の音楽を聴くのに相応しい。もっとも、多くが教会に行くわけでも店が閉まるわけでもなく、人ごみが減るわけでもない都会の日曜日では、その午後が緩んだものかどうかを感じることは甚だ難しいが。 上品で忍耐強く、礼儀正しかったと伝えられるボッケリーニの人柄は、チェロを構えてこちらを向いている有名な肖像画からも感じ取れるが、その作品は実に独特で、弾いていると不思議な雰囲気に包まれる。なんといっても自身が歴史上最高のチェリストであっただけに―ああ、彼の録音があったなら!―弦楽器の扱い、そしてチェロの扱いはこの上なく巧みで、うまく楽器が響くように、そして溶け合うようにできているのである。しかし、その音楽の進み方は所謂ウィーン古典派のものとはまったく異なっているので、そのような構造的強さを音楽の中から聞き取ろうとするべきではない。この上ない「ボッケリーニ・ラヴァー」であるアンナー・ビルスマは、「ボッケリーニを弾くときはね、テーマを探しちゃいけない。どこにテーマがあるか、それの展開はどうかと聴くのではなく、シチュエーションそのものが音楽なんだ」、「ボッケリーニの音楽はね、素晴らしく大きな時計屋に入ったようなものだ。大きな柱時計の振り子はゆったりと、壁の時計がコチコチコチ、小さな時計が卓上でチクタクチクタク…と何百何千もの針や振り子が動いて音を立てている。けれど、店の中は「静か」で、誰も動いてはいない」と表現した。このような「音のある静かさ」は、彼の室内楽にもっとも顕著に表れる。 室内楽に関してボッケリーニは実に多作である。イーヴ・ジェラールのカタログに載っている弦楽トリオが66曲、弦楽四重奏が100曲、弦楽五重奏が142曲(うち114曲は2チェロ)、それ以外、それ以上の組み合わせのものがさらに100曲を超える。自身が弾くことを想定し、またチェロを演奏したプロシア王子(後に王)フリードリヒ・ヴィルヘルムの要請によって書かれたものもあって、それらの中にはチェロの卓抜した技巧を要求するものが少なくない。普段なら低音だけしか弾かせてもらえない (!) 室内楽で、突如チェロにスポットが当たったかのようにメロディが与えられたり、時には第1ヴァイオリンの3度や6度上を弾くデュエットになったりするのは、チェロ奏者にとってはこの上なく楽しいイタズラのようなものである。もちろん、そのときバスを支えるのはヴィオラ、また第1ヴァイオリンであり、普段バスを弾きたくても弾けない彼らも「人の」パートを味わって楽しむことができる。その中で、「時計屋」的な箇所は、実に楽しい時間なのである。 このような室内楽こそボッケリーニの真骨頂なのに、世の中は交響曲やオペラといった大規模な作品をもって作曲家の優劣や仕事の大小を測りたがり、「しっかりとした構造」を判断の基準にしようとする。それで、何も新たなことが起きず、どこへも進まず、さしたるメロディもなく同じ音型が(まさに時計屋のように)8回も続いているような彼の音楽は、弱いもの、不十分なもののように捉えられがちである。学者は「ボッケリーニの音楽には正しい「展開部」がない」と言い、ジュゼッペ・プッポというヴァイオリニストなどは、ボッケリーニの繊細な表現をさして「ハイドン夫人」と呼んだ。その上、ソナタやコンチェルトは大きな音で強く立派に演奏されねばならないという現代の洗脳教育のおかげで、日曜の午後の、デリケートで緩んだ雰囲気は吹っ飛んでしまった。華麗な高音域のパートを喜ぶはずのチェリストたちは力を持ってそれらを征服しようとし、激しい改ざんで知られる「コンチェルト変ロ長調」とピアノ伴奏つきの「ソナタ第6番イ長調」(しかもしばしば第3楽章は割愛される!)以外にボッケリーニを知ろうとせず、立派で堂々として、彼の趣味からは縁遠い演奏を繰り返す。 彼の音楽の不遇は今に始まったことではない。既に生前、彼がマドリッドという遠隔地にいたこともあって、パリやロンドンの出版業者達は彼の作品を好き勝手に並び替え、バスを書き換え編曲して、適当な作品番号をつけて出版した。同じ作品が3つ以上の違った番号を持っていることさえある。前述のイーヴ・ジェラール(Yves Gérard)は、1969年に出版したボッケリーニの作品カタログの中で「1830年から1880年までの間、誰一人として彼の音楽の正確なエディションは出版しなかった」と言っており、また「〜このような悪意ある編曲について、攻撃的にならずにコメントすることは困難であった」と言っている。実際、現在に至るまでボッケリーニに関する出版物の多くは編曲というよりは改ざんに近い。チェロ協奏曲におけるグリュツマッヒャーのそれはその中で最たるものであり、それが明らかになっている今なおその版で演奏することは、ボッケリーニを冒涜することにもなるということを演奏家は弁えるべきである。現在でも、「原典版」的楽譜をボッケリーニについて求めることは難しく、ことにチェロのソナタについては、筆写譜のコピーを見て初めて理解できることが多いのである。 ボッケリーニの音楽を知れば知るほど、そして好きになればなるほど、その素晴らしさを伝えたいのと同時に、今も昔も変わらぬ世の無神経な仕打ちを嘆きたくなってつい力が入ってしまう。しかし嘆いたり腹を立てていたりしては、ポジティヴな彼の音楽は表現できない。それどころか、「弾きながらじっとしている」ような彼の音楽、また微妙な響きの色彩を作っていくには、奏者自身が元気で、朗らかでいなければならない。今回のプログラムでは、クァルテットを2曲、そしてギター・クインテットを2曲お楽しみいただくが、そこには「時計屋」のような雰囲気もあれば外の街路のような賑やかさ、そして激しいスパニッシュのリズムのように活発な部分も登場する。幅広く目覚しい活動を続けておられる福田進一さんをお迎えして、教条的でなく、微笑を含んだ音楽を造りたいと願っている。ボッケリーニの音楽は、演奏家にとっても「日曜の午後」なのだから。 (ミト・デラルコ第4回コンサートのプログラムに掲載)
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