| コウボウの筆 2002/4/15 |
夜も更けて家が寝静まった頃、仕事に見切りをつけて机を離れた後、時々台所へ行って包丁を研ぐ。シュッシュッシュッ…と砥石の上を包丁の滑る音だけが聞こえる丑三つ時…などというと少々うす気味悪いが、別にそれから試し斬りに出かけるわけではない。指が商売道具なのだから細心の注意を払っていなければならないし、正しく立って呼吸も整え、肩の力を抜いて、と結構集中する。なのに、しばらくすると不思議に気が落ち着くのである。もちろん、指先の皮が一緒に磨がれて少し薄くなることもあるから、本番前などにはやらないようにしている。 以前も書いたことがあるが、包丁と弓はどこか似通ったところがあって好きだ。そう、特にヤナギ包丁は形状もバロックの弓に似ていなくもないし、引いて切る感じや切れ味にも共通のものがある気がする。大したことはできないが、ヨーロッパに住みはじめて間もない頃、友人の家で手製の〆鯖を出されて仰天し、よしそれなら自分も、と発奮して料理を始めた。日本食レストランの少なさ、法外に思える高さなども『勉強する』助けとなった。もともと魚が好きだったからか、料理の中でも魚の方に興味が向きがち、道具も増えて、今では弓よりも包丁の方が多くなってしまった(しかしそれは当然、弓は売れるが包丁は売れないからなのだ)。日本に帰ってくれば刺身など店先で売っているし、魚屋さんが「何枚におろしますか」などと聞いてくれる。「こちらはそれをやるのが楽しみなのだ」、と丸ごと買っていく変なヒゲの男は、かくして魚屋によく覚えられてしまう。 オリジナル楽器の演奏というのは、包丁を選んで仕事をするようなものだ。その素材のために道具を選び、想定されているようにその道具を使って味をよくしようというわけである。むろん、包丁は1本でも素材は選べる。しかしやはり出刃や菜切りで刺身は作りにくいし、またいくらよく切れてもヤナギで野菜を切ろうなどとしていると思わぬけがをする。万能に思われる文化包丁は結局何にとっても理想的ではなく、18世紀の音楽にとっての「平均律」を思わせる。そう、オリジナル楽器奏者は『筆を選ぶ者』であり、またその多くが食いしん坊である。 数世紀にわたる音楽の変化、道具の変わりよう、そして作曲者・製作者達両方の想いを学んでくると、「筆は選ばぬ」などとうそぶいてはいられない。変わる前と後の両方を知るためには、博物館に行って見たりちょっと試したりするだけではダメである。自分の普段使う楽器を「知る」のにどれぐらいの時間がかかったかを考えれば、それが自分の手先・指先となるところまで消化しなくては比較できない。ましてや、何も人前で弾かないヒョーロンカの意見などを鵜呑みにしても意味がない。何事につけ優劣でしか判断できない現代、特に日本にあっては、使う「筆」のありようは議論の攻防を支配し、ひいては音楽の興亡のカギともなるのだ。 名古屋しらかわホール友の会発行『音彩』への連載第1回目。第29号(2002年4月発行)に掲載
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